本業以外での障がい者の雇用について是か否かといった問いかけが話題に挙げられることがあります。
私の考えは『あり』です。
2024年4月並びに2026年7月からの障がい者法定雇用率の引き上げのような障がい者雇用に関連した法律改正は今後も継続されることが予想されます。法律改正に伴い企業で活躍する障がい者が増えることは大変喜ばしいことである一方、法定雇用率の達成に向けて雇用数を伸ばし続けることを求められる企業にとって、それらの取り組みが容易だと感じる組織ばかりではありません。
今後職場ではAIやITの導入が本格化する中で仕事の効率化が進むことになります。仕事が奪われる分野もあれば、それらAIやITによって業務が補完されることで成果を上げる分野もあるでしょう。明確なことはこれまでの働く環境やスタイルがデジタルの力によって大きく変化していくことは避けられないということです。また、少子高齢化による労働力不足が企業活動に与える影響は進行形であり、現時点では国の政策としてこの問題を解消するような手立てはありません。
しかしながら、障がい者という労働力はAIやITといったデジタルの力を借りることで業務範囲や役割を拡大させることができます。
【例】
- 聴覚障がい者とのコミュニケーション
外出先で発生した災害・事故などの緊急を要する情報についてスマホを通じて文字情報として伝達
- ADHDの不注意特性を音声でサポート
文章チェックにおいて不注意による見落としを音声によって聞き取り確認を行う
労働力不足に関しても、業務の細分化やテレワークなどの勤務スタイルの見直しを図るなど、従来の業務手順や働き方を柔軟に変化させることで採用する対象者の範囲が広げることが可能になります。
法定雇用率の引き上げや社会性ある組織醸成の一環として多様な人材の活用といった考え方からも、雇用した障がい者を本業の基幹業務に携わってもらうよう努力する一方で、現実としては障がい者の配置が困難な状況になる企業もゼロではありません。その中で取る選択肢のひとつとして「本業以外で障がい者を雇用」を目指す企業は今後増えてくると思います。(余談ですが2024年4月の法定雇用率の引き上げ以降、企業から農園スタイルの障がい者雇用事業者への問い合わせが増加)
しかし、ただ闇雲に「本業以外」の仕事で障がい者の雇用を進めて良いというわけではありません。まず「本業以外」というのは「新規事業」や「新たな分野へのチャレンジ」が大前提の上で、下記に挙げることが合致しているのかという点が重要だと考えます。
『障がい者雇用数獲得が主目的になっていないか』
「本業以外」となるその取り組みを見たときに、事業計画や収支管理もなく、単に障がい者を雇用しているという既成事実を生み出すための場となっていないのかが判断のひとつになります。
最初から綺麗に敷かれたレールの上に乗っかるだけで法定雇用率が達成できると考え、障がい者への理解も社会の公器としての役割も放棄した雇用で法律遵守だと胸を張って公言している組織は、見る人が見るとそれがハリボテの雇用であることはよく分かります。
人を雇用するというのは決して簡単ではなく難しいことです。
障がい者の場合、その特性によってはコミュニケーションがうまく取れなかったり、業務範囲が限定的であったり、天候など機微な変化で体調に影響が出るなど、仕事を任せる側にとっては様々なことに理解と配慮を求められるため、大変だと感じてしまいます。周囲が大変だと感じる以上に障がい者本人が自分のことをものすごく大変だと感じています。そのことについてもう少し認識を進めてもらえると「障がい者の雇用」の見え方も変わってくると思います。
『障がい者従業員もキャリアパスを目指せるのか』
法定雇用率を獲得することが主目的となっている「本業以外」の障がい者雇用では、本人の希望に反して仕事内容に変化が少なく(もしくはずっと同じ)、業務成果に伴った昇給・昇格制度もなく、業務を通じた成長の機会も与えられていないケースが少なくありません。
本来企業は、従業員が職務上の役割を通じて頼もしい存在へと成長することを望んでいるはずですし、そうなるための機会を設ける責任があると考えています。障がい者の中には成長が遅い方もいますが、少しずつできる範囲が広がり、さばく数も増やすことができます。
『人材交流、行事への参加など一般従業員と区別していないか』
雇用する「障がい者」も「一般従業員」と同様に部署間の交流や行事には積極的に参加できる環境が設けられている組織がどれだけあるのでしょう。いつの間にか「障がい者」と「一般従業員」には見えない線が引かれ、区別されているように感じます。
本来できることが限られている「障がい者」に配慮すべきはずなのが、できることが多い「一般従業員」に配慮して「障がい者」を参加させない・結果のみを伝えるが日常になっていないか。
「避ける」を選択すれば、当然「理解」は進まない。我々が目指すのは「分断」された社会ではなく「混ぜこぜ」でも大丈夫な世の中でありたい。