「ADHD」と共に歩む私

私は、高知県四万十町にある就労継続支援B型事業所「しまんと創庫」で、テレワークでの就労を目指している、吉村政宏です。最初に、ADHDの私の自己紹介をします。

ADHDについて初めて言及されたのは、小学1年生の時でした。
担任から多動傾向が強いため、専門機関に診せるべきという話があったのです。それからの半年余り、定期的に学校を休み、休んだ日は施設に行っていた事を覚えています。

結局、その施設でADHDだという診断は下りませんでしたが、家族との愛着形成に問題があるという指摘を受けました。指摘に対する具体的な対策をとることはできませんでしたが、多動的傾向は小学3年生頃には影を潜めました。
そして、多動と入れ替わるように表れたのが衝動性で、私はよく喧嘩をしました。すっかり問題児となった私は、1年ほど別の施設に連れていかれるようになりました。
ここでも愛着形成の問題を指摘されましたが、特に気にせぬまま、小学4年生の半ば頃になると、私はしばらく安定しました。しかし、思春期になってから表面化したのが不注意性です。
その頃の私は、中学校に殆ど行きませんでした。中学生で非行少年となった私には、いつもライターを失くすという癖がありました。失くした時は不良仲間から借りていたのですが、その借りたライターを自分のポケットに入れたまま、返し忘れるという出来事も頻発しました。

しかし、日常的にはあまり困っていませんでした。そのような中学校生活を終え、何とか高校に入学する事ができたのですが、大変だったのはここからです。

学生時代とは違う「働く」困難


高校は夜間学校だったため、日中はファストフード店で働く事を決めましたが、道に迷って遅刻したり、制服を持って行くのを忘れたりと、散々な働きぶりでした。そのため、私は職場の人から白い目で見られるようになり、その場に居られなくなりました。

その後もバイト先を変え続けましたが、どこで働いてもファストフード店の時と同じような事を繰り返しました。それは、高校を卒業し社会人になって、県外で一人暮らしを始めてからも変わりませんでした。やがて定着を諦めた私は、日雇いでその日暮らしを始めましたが、それを続けているうちに何の気力も湧かなくなってきました。

心身ともに病んだ私は、実家に戻る事にしました。戻った後は地元で仕事を始めましたが、それも過去と同じ理由で続かず、その後ひきこもりました。
ひきこもってから1年ほど経ったある時、疎遠になっていた母が、社会福祉協議会の人たちを連れて私の前に現れ、社会復帰への道筋を示してくれました。その人たちの助けのおかげで、私は社会との繋がりを徐々に取り戻し始めたのです。

社会との繋がりの大切さ


様々なボランティア活動を通じて社会との繋がりを取り戻していくうちに「比島交通公園」で、交通指導員兼、園内整備員として雇ってもらえる事になりました。
主な業務内容は、草刈り機を使って園内の伸びすぎた草を処理したり、ゴーカートに乗りに来たお客様の案内をしたり、交通ルールを学びに来た幼稚園児や小学生を相手に、交通ルールのお話をしたり、といった事でした。公園内は、いつも子供たちの元気な声で賑やかで、毎日がとても充実していました。

しかし、私はゴーカートの運転中にフェンスに激突するという事故を起こしてしまいました。人身事故にならなかったことは不幸中の幸いでしたが、公園に損害を与えてしまったのです。
この事故を起こす前から、自分は発達障がいを抱えているのかもしれないと考えていましたが、「知る必要が無い」、「自分の事なんてどうでもいい」と思っていました。しかし、自分から目を背け続けていたら、いつか愛すべき子供たちを自らの不注意で傷つけてしまうかもしれない。これはもう私だけの問題ではないと考え、自分と向き合うために、診断を受ける覚悟を決めました

そして長い時間をかけて行われた精密検査の末、下された診断はADHDでした。
視空間認知の発達の遅れによって起こる注意力欠如で、症状は重症化していました。ADHDの症状は人それぞれで、二次障がいのあるなしまで含めると、本当に千差万別と言われています。幸いなことに、診断では悪い事ばかり言われたわけではなく、平均的な人以上に高まっている能力がある事を教えてもらえました。私の場合は、言語能力です。

「自分の強みは言葉と文字」。私はそれに納得しました。
昔から読書好きで、口が達者で、他の人の心を傷つけるような言い方が得意だったからです。納得すると同時に、最大の強みである言語力を、人を傷つけるために用いてきたという過ちも受け止めました。そして、私が持つ力を人のために使いたいと思い、現在はテレワークでの就労継続支援サービスを利用し、文章力を身につける努力をするとともに、不注意等の症状を少しでも改善するため、食事や様々な運動など、生活面の工夫も欠かさず行っています。

診断を受けてから現在までの間、これらを継続してきた自分を、私は誇りに思っています
最初は朝の散歩をするだけの習慣だったのが、気が付けば次から次へと色々な事に挑戦している自分がいて、こうした傾向はADHD特有かもしれないと、良い側面にも目が向くようになりました。これからはADHDの良い部分を活かし、悪い部分は極力出ないような道を歩んでいきたいと思っています。

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▼プロフィール:
高知県高知市出身。2002年生まれ。
幼少期から周囲に発達障害を疑われ続けてきたが、自ら受診しようと思ったのは、2018年12月、26歳の時。ADHD(不注意優勢型)と診断された。2019年2月から現在まで就労継続支援B型事業所「しまんと創庫」にて、自分に合った会社への就労を目指し、テレワークでのデータ入力業務や、話し手としてのテレワークセミナーへの参加、文章力向上のための訓練などを行っている。