ずっと昔、私が会社員だった頃のエピソードです。
ある時、社内で同僚や部下と雑談をする中で干支の話になり、あるひとりの部下(男性・20代半ば)に何年(なにどし)生まれなのかを質問しました。その彼は自分の干支が何なのかが分かりませんでした。
他にも
「2月3日が何の日なのか分からない」
「『穴あけパンチ』の使い方が分からない」
といったことがあり、とても驚いたのと同時に社会人として大丈夫なのかと不安に感じました。それは、干支であったり暦であったり、いわゆる『一般常識』と言われる物事について身に着けていない彼への「抵抗感」だったと思います。
一般常識とは何か?
では、『一般常識』って何なんでしょうか。
自分の過去を振り返ってみても学校の授業で道徳の時間はありましたが習った覚えはありません。そのため、具体的にどのようなことを指しているのかも明示されていませんが、その言葉には「社会人として」「人として」しっかりと身に着けておかないといけないという強いイメージが感じ取れます。
「『一般常識』を身に着ける」というのは、これまでの生活を通して得た経験であったり親・先生を含めた目上の人からの教えだったり、生きていく中で自然と蓄積されたことがベースとなり、普段の振る舞いや行動に表れることなのだと考えます。そういったことが当然のように思われていたのでしょう。
ここで改めて『一般常識』という言葉を調べてみました。
次に『常識』という言葉を調べてみました。
最後に『健全』という言葉も調べてみました。
②片寄らず堅実な様、あぶなげなく確かな様
調べれば調べるほど、解説に使われるひとつひとつの単語に妙な引っ掛かりを感じてしまいます。※今の時代ならアウトなように思います。
昨年2020年から新型コロナウイルスが世界中に大きな影響を与えています。
それは我々の生活も同様で、今までの当り前がニューノーマルな生活習慣へと変化する部分があり、徐々に受け入れられるようになってきました。例えば、公共でのマスク着用や衛生管理、密を避けるなど、新たな『一般常識』と言えるルールが生まれました。
しかしながら、新しい生活習慣を自分自身が完璧にできているのかと問われるとできているとは言えず、まして人にそれらを強制するつもりもありません。
このような世の中になってしまったこともひとつの原因ではありますが、SNSの普及も然り、他者の行動や言動に対して反応することが情報として入って来ることが多くなってきたと感じます。
誰かの投稿されたつぶやきや動画に対して、「〇〇をするなんて非常識」「□□ぐらいできて当然」といった『一般常識』を押し付けているような反応は、何処に正解があるのか分かりません。
新型コロナウイルスの感染対策として、マスクの着用や〇人以上の密を避けるといったことが共通認識のように言われています。そういったことを守らない目に余るような行為があった場合は、注意したり指摘することも必要なことではありますが、一方的にこちらの意見を求め過ぎるのは、また違った問題を引き起こすことになります。
違いを受け入れること
人とは「人間」という同じ生物ですが、容姿・性格など、それぞれに違いがあります。物事の考え方や捉え方にも違いがあります。頭では分かっているものの、普段の生活で自分と違う意見や考え方に出会ったときに拒否反応や抵抗感を感じることは少なくありません。これからの時代は「違い」について、「拒否」ではなく「受容」が求められる世の中になってきます。
障がい者の雇用についても感じることがあります。障がいのない人から見れば、障がい者は自分とは違う存在です。家族や友人など、近しいところに障がい者がいない人にとっては、理解が進まないのも当然だと思います。仮に障がい者雇用義務のある企業が法定雇用率の達成を目的に、理解が進んでいない組織に対して一方的に障がい者雇用という価値を持ち込んだとしても、上手く浸透しない可能性があります。
障がい者雇用を実現させるためには、周囲の理解と協力が求められます。完璧でなくても構いません。障がい者を雇用する理由を自社に適した方法で少しずつ浸透させながら、求人・採用活動に取り組むことができれば良いと考えます。
間違いなく、他者を認める組織というのはこれからの時代を生き抜いていくことができます。障がい者雇用に携わる仕事をしている者として、障がい者の雇用をきっかけに強い組織づくりを目指す企業が増えれば良いと思います。
冒頭の話に戻りますが、『一般常識』が身に着いていなかった彼を「拒否」ではなく「受容」してあげられなかったことを強く反省しています。そういった事実を受け入れながら、これから生きていく中で必要な知識を経験の積み重ねとして一緒に学んでいくようにしたかったと今更ではありますが感じています。
『一般常識』という言葉、必要ですか。