小学校の国語の授業で、本読みをしていると突然声が出なくなり頭が真っ白になったことは、今でも鮮明に覚えています。
僕が吃音・どもりという症状を知ったのは、そのときが初めてでした。話したい言葉が出てこないということが、これほどまでに辛く、苦しいことだと、幼いながらも感じた瞬間でもありました。
そんな吃音症で苦しんだ僕ですが(今でも悩みのタネですが…)、言葉を増やすことで吃音症とそれなりにうまく付き合えるようになりました。ここでは、僕が吃音症と共存できるまでの取り組みについて書いてみようと思います。
言葉が出てこないという恐怖
これまでスムーズに話せていた言葉が、ある日を境にスムーズに話せなくなる。これは事故によって、足を失ったり、歩けなくなるという感覚に近いのではないかと思います。
これまで話すことが好きだった僕にとっては、思ったことがスムーズに話せない現実はただの恐怖、苦しみでしかありませんでした。
もちろん、誰にだって「お、お、おはようございます」のようにどもることはあります。ですが、多くの人にとってどもることが怖くないのは、日常的にはどもらず、またどもったとしても、次に言葉を発するときにはどもることなんて意識していないからです。
吃音症を意識するまでスムーズに話せていた僕にとっては、何か言葉を発するときに「あ、言葉が出てこない(出てこないかもしれない)…」という感覚が日常化している状況は、耐えがたい恐怖でした。
言葉が出ないなら、出てくる言葉に言い換えればいい
「伝えたいことが伝えたい言葉で伝えられない」という状況は、非常にもどかしいです。ただ、もどかしさを感じていても、何かしら伝えなければ、相手は理解してくれないですし、行動してもくれません。
もちろん、伝達手段というのは、「口」だけではありません。書いてもいいでしょうし、ジェスチャーでもいいのかもしれません。でも、書き言葉やジェスチャーに頼らなかったのは、心のどこかでそれらの方法に後ろ向きなイメージを抱いていたからだと思います。
書いたり、ジェスチャーを使わないのであれば、どうするべきか?
と自問自答し、行き着いた答えが「言葉を言い換える」ということでした。
言葉の言い換えは、吃音症を悪化させるという説もあるが…
吃音症について調べていると、「言葉の言い換えは、吃音症の症状を悪化させることがある」のような情報を目にすることは少なくありません。この情報に信ぴょう性があるのかどうかはともかくとして、こういった情報を目にすると、ちょっと後ろめたい気持ちになってしまいますよね…。
正直、僕も最初は「言い換えはやめようかな…」と思いましたし、そうしようと努力していました。ですが、結果として「言葉の言い換え」をやめても、症状は改善しませんし、伝えられないことへのストレスも溜まり、症状はむしろ悪化しているように感じたんです。
もしかしたら、言葉の言い換えは吃音症にとってはよくないことなのかもしれません。ですが、それが良いことなのか、悪いことなのかは、当事者にしかわからないことなのではないかと僕は感じています。
言葉を増やす苦痛と乗り越えられた理由
「言葉を言い換えれば、言いづらい言葉があっても大丈夫」と思っていても、そもそも言葉を知らなければ、言い換えることなんてできません。
また、言い換えても同じ意味・内容を伝えるためには、ただ言葉を知っているだけではなく、言葉の意味、類義語、同義語などについても知らなければなりません。
正直、言語能力や記憶能力が乏しかった当時の僕にとっては、言葉を覚える、言葉を増やすという行為は苦痛でした。今でこそ日常的に読書をしますが、当時の僕にとっては「活字を読めば眠たくなる」「読み始めても、意味がわからなくて読みたくない」という感じで、言葉に接することがとにかく嫌でした。
それでも、自分なりの方法で言葉を増やすことができたのは、それが自分の辛さや苦しみを軽減してくれると感じていたからだと思います。そして、言葉を増やし、コミュニケーションの幅を広げることが、僕の人生を切り開いてくれるきっかけになると思っていたからです。
さいごに
吃音症というのは、障がいとしての認知も低く、それほど大変な症状ではないように感じている人が多いのではないかと、僕は感じています。
どもることは、誰にだってあります。
でも、だからといって「吃音症=辛くない、大変ではない」と認識されてしまうと、吃音症で悩む人にとっては少々辛いです。言葉が出ないということは、思っている以上に怖いです。
もちろん、だからといって「吃音症は辛いんだから、周りも辛い思いをしろ!」なんていいません。僕は、吃音症という言葉が出にくいことに悩む人がいるんだということをもっと知ってもらい、受け入れてもらえればそれでいいと思っています。