自分で考える。人を育てる時に最も大切なこと

人に物事を教えることは非常に難しいことです。
同じ内容を説明してもこちらが伝えたいことがどれほど伝わるかは人によって異なりますし、どんなに素晴らしい説明を行っても相手に理解されないこともあります。

そもそも、人によって物事の理解度は異なりますので、教える相手に合わせた話し方をする必要があります。この点を踏まえると、「教えること」とは、さながら「プレゼンテーション(プレゼン)」の様ですね。しかし、「教えること」と「プレゼン」は全く別物ですので、同義に捉えてはいけません

「教えること」は「手助け」で、「プレゼン」は「情報提供」

そもそも、「教えること」の目的は何でしょうか?
子供に勉強を教える、後輩に仕事を教えるなど、状況によって様々ですが、共通しているのは「理解するための手助けをすること」ということです。理解を進めて行かねば学習は進みませんし、仕事も出来ません。

では、「プレゼン」の目的は何でしょうか?
それは「知ってもらうこと」です。取引先でプレゼンをし、自社のサービスやこちらの提案を知ってもらうのですが、必ずしも理解してもらう必要はありません。
これが「教えること」と「プレゼン」の違いです。

さて、このように定義すると、
「プレゼンによって仕事を教えることもあり、プレゼンの目的も「理解してもらうこと」なのでは?」
と思いますよね。そもそも「プレゼン」は情報提供であり、知ってもらえれば問題ありません。
例えば、商材を売り込む際にもプレゼンをするわけですが、理解してもらう必要はなく、商材を知ってもらい、受注に向けた説得ができれば良いのです。
また、部下や後輩を一同に集め、集合研修のような形で仕事を教える場合、プレゼン形式で話すことがあります。このときの目的はその仕事を知ってもらうことで、仕事を理解することではありません。

さて、「理解すること」と、「知ること」とは、非常に似た言葉ですがその意味合いは大きく異なります
では、その差異は何でしょうか?

「理解すること」の入り口は「知ること」


「理解する」とは、物事の道理や本質を把握することです。その物事の表面的なことだけでなく、内面的なことまで全て把握できている状態で、まるで自分の手足の如く操れる様なイメージですね。
一方、「知る」とは、物事を網羅的に把握することです。その物事の全体像を把握するということですので、内面的なことまで把握する必要はなく、表面的なことだけ把握していれば構いません。

ここまで読み解くと、一つの気づきが得られます。それは、”「理解すること」の入り口は「知ること」である”ということです。物事を認識するときの順序は、表面的な情報を把握し、それを深化させて本質を認識していきます。つまり、「理解すること」の始まりは、「知ること」なのです。

例えば、英語を習い始めると、a/anとthe(冠詞)の使い方を覚えます。この時まず、英語で名詞を表す際、何か単語を付けるということを知ります。これは表面的な把握であり、まだ本質を把握しているわけではありません。その後、aとanの違いは、名詞の先頭が母音か否かであるということを認識したり、a/anには不確定な意味があり(不定冠詞)、theには確定な意味合いがある(定冠詞)ということを認識していきます。更に冠詞には無冠詞という形があり、不定冠詞や定冠詞と連続的な関係にあるということを認識していったりします。この様に、徐々に冠詞の本質を把握することで、冠詞についての理解度を深めていく様になります。

さて、ここに「教えること」と「プレゼン」を混同する要因が潜んでいます。
それは、「知ること」と「理解すること」は連続していて、明確な境界は存在しないということです。物事を知り、理解度を深めていくことで理解していくのですが、この営みは途絶えることはありません。そのため、教える側も教わる側もその過程を認識しづらく、教えることの本来の意義が捉えづらいのです。

それ故に、教えることの本質を把握していないと、教えているつもりがプレゼンになってしまい、だた情報提供するだけで、理解することを手助けすることができなくなってしまいます。
では、どうすれば教えることの本質を捉えることができるのでしょうか。

自分で考させることを意識する


先程、「理解するということは、その物事を自分の手足の如く操るイメージ」としましたが、それはどのような状態でしょうか。それは、「自分で考えられる」ということです。表面的なことのみを把握している状態では、応用的な思考は行うことはできません。自分で考えられるということは、本質的なことを把握していなければできませんので、その物事をある程度理解していることが求められます。

つまり、教えるということは「自分で考える手助けをしている」ということなのです。
従って、教える際に「相手に考えさせる様に教える」ことを意識して教えれば良いのです。
取り組み方は様々ですが、その一つとして、双方向でのやり取りを心がけるという方法があります。一方的なやり取りをしていては、相手に考えさせる機会がありません。その結果、物事の理解度が深まらず、「知っている」状態に留まってしまう恐れがあります。この時、教えられる方が自発的に理解度を深めていけば良いのですが、それは結果論であり、教える側が意図的に考える手助けをしているわけではありません。

一方で、双方向でのやり取りでは、教えられる側が考えなければやり取りを続けることができません。また、教える方はやり取りを続けなければなりませんので、自然と考える手助けをするようになります。これが本来の教えるという行為なのです。

人に物事を教える時は、相手に考えさせることができているか、またその手助けができているか常に意識しながら教えてみましょう。
それこそが教えることの本質なのです。

ABOUTこの記事をかいた人

1989年生まれ。2015年末、ADHD(注意欠陥多動性障がい)と ASD(自閉症スペクトラム)の診断を受ける。その後、LD(学習障害)の特性がある事も判明する。それまで自身を健常者と見做して生活してきたが、生活の様々な場面で支障を来しており、それ以降、自身の障がい・特性を認めた上で活かすようになった。永らく、自身の特性から低い自己肯定感に苛まれていたが、大学院時代に知り合った留学生たちと、留学先の米国で自己肯定感を高めることになる。2016年末より現職。