突然ですが、相手に自分の立場を理解してもらうことは難しいですよね?
自分はこう思っているのに、相手にはその様に思えないなど、必ずと言っていい程、認識の相違が発生します。
ちなみに、自身の障がい内容に関する説明をする場合も同じです。この時、話す側は自分自身の事を理解してもらえる事を期待して説明する訳ですが、一方、聞く側はその人の認識で以って話を聞く事になります。そのため、必ずしも話す側の期待ほど、理解出来るとは限りません。
この時、話す側はもどかしさを感じ、ついつい訴えかける様に話してしまったり、熱がこもって口調が荒くなってしまうこともあります。無論、どんなに訴えかけても、口調が荒くなっても、認識の相違は埋まらず、むしろ周囲との溝が深まりかねません。
なぜ自分の立場は相手に理解されにくいのでしょうか?
今回は、なぜ認識の相違が発生するのか、そして、どうすれば認識の相違を軽減することができるのか、考えてみたいと思います。
人は異なる存在であるため、100%理解することはできない
初めに、なぜ認識の相違が発生するのでしょうか。
それは、人それぞれが異なる存在であり、互いを100%理解することはできないためです。
至極当然の事の様に思えますが、人は話をしている時、案外その事実を忘れ、完全に理解する事を求めてしまう傾向があります。
そもそも、それぞれの個人が持つ背景や知識は異なり、生まれ持ったものも違えば、生育環境なども違うわけです。そのため、どんなに懇切丁寧に説明しても、聞き手は話し手自身と同じ状態で認識することはできません。もちろん、一心同体という言葉がある様に、それに近い状態に持っていくことはできます。しかしそれは、後述する「認識の妥協点」が限りなく高い位置で成立しているからであり、自分のコピーの如く100%理解できるわけではないのです。
理解し合えたとしても、100%理解し合えているわけではない
さて、前述の様に完全に理解し合えた様に見えても、それは相手の立場や考えを、まるでコピーするかの様にそっくりそのまま認識しているわけではありません。
あくまで、双方の理解できる範囲で認識し合ったに過ぎません。
つまり、異なる立場同士が、まるで妥協点を見出したかのように、お互いが納得できる一つの結果を見出したわけです。この「妥協点」のことを、ここでは「認識の妥協点」としましょう。
例えば、AさんがBさんに、自分の困り事を話したとします。
Aさんにとっては重要死活問題なのですが、Bさんは「Aさんにとっての困り事」という認識が出来ても、「Aさんと全く同じ立場」で問題を認識することはできません。そのため、Bさんという立場で、Aさんの困り事を認識します。つまり、Aさんにとっては重要死活問題でも、BさんはAさんと同じ感じ方で事実を認識することができないのです。
「いや、そんなことはない。Bさんの立場でも、Aさんの困り事が痛いほど分かることもあるはずだ。」
その通り、BさんもAさんの困り事を、まるで自分の事の様に、強く認識することができます。
しかし、それはあくまで「Bさんという立場」で認識しているわけで、「Aさんの立場」で認識しているわけではありません。
人は過去の経験を以って想像力を働かせることで、他人の出来事をまるで自分自身の出来事の様に捉えることができます。そのため、他人の立場に立って物事を捉えることが出来るわけです。しかし、それでも考えている主体は自分ですので、あくまで自分の立場から相手の立場を想像しているに過ぎません。
従って、この場合の理解とは、互いの最大公約数の様なもの、「妥協点」が高いのであって、まるでコピーの様に相手の立場を相手事として認識しているわけではありません。
人と人との間で認識を共有する際、双方が互いのコピーの様に100%の理解をしているわけではなく、その都度、「認識の妥協点」が形成されているのです。
妥協点は少しずつ変わっていく
では、「認識の妥協点」を高めるにはどうすればよいのでしょうか。
そのヒントは「認識の妥協点」の成り立ちについて考えると見えてきます。
まず、聞き手のBさんが、話し手のAさんの話を読み取ります。この時、Bさん自身の背景や経験によって、Aさんの話を解釈し、Bさんに認識されます。
その結果として、Bさんは言葉を返し、Aさんは自身の背景や経験によって、Bさんの言葉を認識します。
互いに会話を進め、認識の落とし所を探っていきますが、この落とし所こそが「認識の妥協点」なのです。
実はそれ以前に、各人の中で、もう一つの「妥協点」が発生しています。それは、「相手の話を認識した時」です。この時、自身が持つ属性や経験によって相手の話を解釈し、認知するのですが、この認知した瞬間こそがもう一つの妥協点、「認知の妥協点」なのです。
言い換えると、「解釈のポイント」とも言えます。
まとめると以下の流れになります。
- AさんがBさんに話しかける
- Bさんは無意識のうちに、自分の背景や経験を元に、Aさんの話を解釈し、認知する(認知の妥協点が発生)
- BさんがAさんに話しかける
- Aさんは無意識のうちに、自分の背景や経験を元に、Bさんの話を解釈し、認知する(認知の妥協点が発生)
- ①〜④を繰り返す
- 会話が進むに連れ、互いの中で認知の妥協点が増え、互いが分かり会えるポイントが自ずと見えてくる
- 互いが分かり会えるポイントが形成される(認識の妥協点)
会話は以上の流れを踏みながら進行していきます。
なお、「認知の妥協点」を決定付ける因子は2つあり、一つはその人の「背景」であり、もう一つは「経験」です。
ここで示す「背景」とは、その人がその場に立つまでの経歴であり、生まれ持った先天的な要因や、生育環境などの後天的な要因によって定義付けられるものです。その人自身の考え方や思考のクセを方向付けるもので、歳を重ねる程、大きく変わることは少なく、膠着性が強い因子です。
一方、「経験」とは、それまでに体験した物事や、獲得した知識・情報によって定義付けられるものです。こちらは情報の解釈に関係し、体験した物事や獲得した知識・情報が多い程、柔軟性に飛んだ解釈が出来る様になりますので、歳を重ねる程、柔軟に富むようになります。
つまり、「認識の妥協点」を見出すために必要な「認知の妥協点」は、不変的な傾向の強い「背景」と、可変的な傾向が強い「経験」によって形作られますので、「認識の妥協点」は変わり得るということです。
以前は理解しあえなかった友人と、十数年の時を経て再開した際、不思議と打ち解けられることがあります。これは、それぞれが様々な経験を積むことで解釈の幅が広がり、柔軟に物事を捉えられるようになったことによるもので、以前よりも高い「認識の妥協点」が形成されたことによるものです。よく時間が解決してくれるという言葉を聞きますが、それは「経験」を積んだからであり、時間が勝手に解決してくれているわけではありません。
つまり、それぞれの立場に関する体験や知識、情報に触れる機会が多い程、次回会話した時に形成される「認知の妥協点」が高まり、より高い認識の妥協点が形成されることで、認識の相違が減り、さらに理解が深まるわけです。
自分の立場を相手に理解してもらったり、相手の立場を理解することは難しいことですが、人それぞれの認識の範囲や感じ方は変わっていきます。私たちは相手を100%理解しているのではなく、その人にとって、その時点で認識できる範囲で理解しているという事を頭に置いておくと、周囲との意思疎通も図りやすくなるでしょう。