とある手術を行なうことになって2週間程度入院することになった。
元気な状態で何日も病室で過ごすというのは中々新鮮な気分ではあるが、いかんせん、時間を持て余す。
1分の長さを体感するなんていつぶりだろうなとボンヤリと考えながら、
結局、コラムを書いて、このゆったりと流れる時間を消費している。
ICUにいる間は、特に何をすることもできなかったので、
無機質な白い天井を見上げながら「次回のコラムのネタはどうしようかな」などとつらつらと考えていた。
そんな中で浮かんだテーマが今回の記事だ。
「出会いを大切にする」
こういった言葉をよく耳にするが
実を言うと、僕はこの「出会い」というものを特段、重要視していない。
僕の場合、22歳の頃から会社経営をやっているので、それこそ「出会い」や「人脈作り」というものが必要不可欠ではあるものの、単純に僕自身が「○○と会いたい」だとか、「こういう人に会いたい」だとか、心底熱望する人物が居ないという理由と、
そもそも、根本的に出会いというもの自体がごく自然に、オートマチック的に、そして必然的に発生するものだと考えているからだ。
出会うべきタイミングで、出会うべき人と出会う。
そういうシステムになっているんじゃないかと思うほどに僕の短い人生の中ですら、そう感じることが多かった。
出会いそのものを目的として頑張らなくてもいい。
そこに労力を割く必要性を僕には感じられないのだ。
ただ、これは人の縁を大切にしない、という話でもない。
出会いと縁は似ているようで違う、ニアリーイコール
どちらかというと「付き合い」の方が縁と同義に近いと思うのだ。
つまり、僕が大切にしているのは「出会い」ではなく「付き合い」の方。
関係性を続ける、ということの方が圧倒的に難しい。
これに関しては自分自身が頑張らなくてはいけないのだ。
おそらく、多くの人が一度は身に覚えのあることだと思うが、
お互いの思い、
お互いの温度感、
お互いのタイミング、
お互いの距離感、
全てにおいて相手のことと自分のことの双方のバランスを考えていかなければ、あっという間に綻びは生じ、一瞬で関係性が途切れてしまうことがある。
それだけ、人の縁というものは脆い。
しかし、これをネガティブな感じで受け取ってほしくはないのだ。
「そんな面倒な考え方で人付き合いなんかやってらんねーよ」ではなくて、
「そんな面倒な考え方をしてでも自分が大切にしたいと思える人なら大事にし続ける」
そういう風に思ってほしい。
どんなに自分が安心しきっていても、ほんの少しの言葉のニュアンスで途切れてしまうようなものが人間関係なのだと、そうやって自分を戒めておかなければ、気づかないうちに大切な誰かを傷つけてしまうことになるのだ。
手遅れになってしまってからではもう遅い。
気がつけば自分の周りには誰も居なかった、なんてのもよくある話だ。
身近にいる大切な人たちの存在
今でこそ、こんな考えをしている自分だが、僕も以前、『人と出会うこと』に重きを置いていた時期があった。
出会いというものは刺激的で、自分とは全く違う価値観や視野を持つ人と触れ合うのはとても新鮮で心が踊るような気持ちになる。
しかしながら、それだけに意識を向けていた僕がある日、仕事や生活のことで本当に落ち込んだとき、
あたりを見回しても相談できる相手は誰一人として居ないことに気がついた。
その時、僕を支えてくれたのは付き合いの深い友人。
それ以来、僕は、身近な人が困ったとき、苦しいとき、誰かに救いの手を求めているのを見かけたときは、自分がどんな状況でも、なるべくそのサインに応えるようになった。
そして同時に、日頃から感謝の気持ちを伝えるようになった。
けれども、こういった関係性をすべての人に向けるというのは不器用な僕には無理があったのだ。
人間関係を表す言葉で、
「浅く広く」
「狭く深く」
という表現があるけれども、なるほどなと思う。
浅く付き合う分には、それほど労力を必要としないが、
深く付き合おうとすればするほど、パワーが必要で、必然的に広くすることが難しいのだな、と。
だからこそ僕は、僕にできる範囲で、身近にいる大切な人たちとの関係性を何よりも重要視する考えに行き着いた。
どちらが良いという話ではないにせよ、
SNSやマッチングアプリの普及に伴う、最近の「出会いを重要視する風潮」に違和感を覚え、今回は「出会い」と「付き合い」について題材にしてみた。
ところで、僕は昨年の5月に起業をしたわけなのだが、正直なところ、裸一貫、ゼロから再スタートを切るつもりでいた。
そんな中、僕にとって大切な方々が応援や協力をしてくれたおかげで、今はとても楽しい仕事をさせてもらっている。
是非、あなたも少し周りを見渡してみてほしい。
新たな出会いや環境に気を取られ、身近な人への言葉や態度がおざなりになってはいないだろうか。
あなたにとって大切な誰かが傍に居てくれているのなら、たまには感謝の気持ちを言葉や形で表してみるのもいいのかもしれない。